痛みの快楽

肉体的痛みを、性的快楽にできる人達がいる。ひどくアバウトに言えば彼らはMと呼ばれる。しかし、それは特別な事ではない。そもそも、現代人は本能という枠組みからすでに遠ざかっているのだ。ダイエットにしろ、セックスにしろ、私たちには動物が本来持つ3大欲求すらも、意識によって操作する。そして、それが痛みという、自身にとって有害を表す信号にまで及んでいる。
 それは遊園地のジェットコースターの感覚に非常に似ている。人間はこの現代社会が余りにも本来の生き方とかけ離れてしまったため、人間の危機察知能力がひどく低下し、それを補うために、あえてジェットコースターやバンジージャンプをするのだという。よく、臭いものを匂う癖のある人がいるが、あの行為も嗅覚の能力低下を防止する行為なのだそうだ。本能すらも遊び道具に変えてしまう人間への罰はもうすでに与えられているのかもしれない。
 それらと自傷行為を一緒にする事は出来ないが、確かに私たちには(特に日本人)直接的な暴力や身体への不安がはなはだしく欠けている気がする。死への接触が少ないのだ。基本的に人間は病院で死に、その処置は家族ではなく、看護士や葬儀社に委ねられる。死はもうそれだけで日常生活や文化の面から言えばタブーなのである。身近な人間の死を見た時、だれもが動揺する。息をしているものには触れても、死体となったその時点で、人はあらゆることに躊躇するのだ。そしてそれが本能なのだ。人間が本当に生命の危機を感じるとき、Mなんて物は消失するのかもしれない。
 私たちは痛みを本能から切り離し、意識のもとで感じる術を知ってしまった。性が、子孫繁栄のために利用する事が少なくなった今、セックスの中にある痛みは行き場を失い、快楽へと強制的に仕向けられている。耳を噛んで欲しい。もっと強く、血が出るまで。背中に爪を立てられたい。痛いほど、奥まで突いてほしい。この欲望は寂しさから来るのだろう。気持ちよさの中に、痛みを取り入れる事により本能が甘やかされた感覚を一つに束ねる。また、ここまでされても、私は貴方を愛するんだ、という切ない叫びでもある。逆に言えばここまでしなければ安心できないのだ。 
 カマキリは交尾をした後、メスがオスを食べる。オスはされるがままになっている。それとは全く別物だろう。人間はどちらかと言えば、痛みを感じる方が自己愛に満ちている。
 こんな私も、いつか死ぬ間際には最高のMになりたいと思っている。例え地獄に落ちたとしても、串刺しにされながら決して死ぬ事の無い、保証付きの痛みの中安心して気持ちよくなれるからだ。

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