奇麗事の効能

 愛か、お金か、と問われれば私は迷わず愛と答える。例えそれが奇麗事だと取られても、私は一向に構わない。
 今、幸せか、と問われれば私は幸せだ、と言い切る。もしも、今不幸のどん底にあったとしてもなるべくならばそう答えたい。
 私のそのような言葉に何の裏打ちも、理論も、証拠もなく、薄っぺらい響きであったとしても、極力そう答えたい。奇麗事を言い続けることに、少しの意味はあると思うからだ。
 死ぬという事が私の頭にはいつも前提としてある。いつ死んだっておかしくは無いと感じている。それは無意味な危機感かもしれない。ネガティブだと思われるかもしれない。しかし、人は容易く死んでしまうものだと、私は思っている。死は特別ではない。老人や、病人だけのモノではない。日が当たれば影ができる。生があれば、死は必ずついて回る。それが、私達の前に見えるか、後ろに見えるか、ただそれだけの違いだ。私は光を自分の後ろに当てている様な仕事をしている。つまり影が自分の正面に来るわけだ。嫌でも目に入るその影を認識するのは当たり前だろう。
 死を日常に感じたとき、私はその余りの儚さと自然さに驚きを感じた。私の想像する死とは、もっと特別で、もっと不自然で、遠い雲の上の様なかけ離れた事態だと思っていたからだ。しかし現実は少し違っていた。もちろん、私が毎日触れる死というものは、ほとんどが赤の他人であるが、だからこそ、死を自分に投影することが出来るのだろう。
 死の感触は生の温度を際出せる。自分が生きている事が奇跡だとは思わないが、生きる、というよりも生かされている、と何だか縁側でお茶を飲む老婦の様な気分になる。そして、この私を生かしているのは愛なのかな?と、なんとなく思う・・・。今、目の前にあるハンバーガー、これに生かされている。だから、愛を受け取っている。今、吸っている空気、これで生きている。だから、愛を受け取っている。生きるって言うのはそういう、日常の些細だと思われがちな愛を沢山、受け取って、そうしてやっと心臓が動いていけるものだと思うのだ。私にとっての愛とは漠然とした、しかし、絶対的な何かなんだろう。
 私は、幸せ。こうなれば、もうそういう他に無いじゃないか。福沢諭吉にお湯をかけてもお腹一杯にはならないし、燃やしたところで出るのは二酸化炭素だし、私にとってのお金とは手段であり、目的ではない。
 不幸とは自分の、全てを否定する言葉だと思う。それはすなわち、自分以外の周りをも否定する事になると思う。安易に不幸だなんて使うものじゃ無いな、と実感する。それに、何かを否定するよりも、肯定できる方が、きっと楽。誰だって楽しみたい、気持ち良くなりたい、その為に、出来るだけ、幸せと感じる幅を増やしたい。私は手っ取り早くそう考えた。
目の前のハンバーガー。一人、部屋で食べる夕食。何だかこれって、すごく寂しい光景に見えるけど、集中して肉の味を感じてみると、オーストラリアに最敬礼したい気分である。
ついでに、スマイル0円の店員にも、最敬礼。

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