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曖昧な認識

 空って青いなあ、海って青いなあ、あの人って、そういえばこんな色を持つ人だったなあ・・・。人には色がある。人は様々な色を持っている。こっちからみればこの色、あっちからみればこの色。色は、ものの数だけ存在する。ミカンでも、トマトでも、一つ一つは微妙に違う。
 昔、こんなことで悩んだ。この、私が、赤と認識している色。もしかしてこれは他の人には私から見た青のような色に見えていて、それを赤と呼んでいるのではないか?ということである。まあ、よっぽど暇なんだろう、私は。
 認識の違い。それは色だけではない。なんにだって言えることだ。味覚にしろ、皮膚感覚にしろ、それを私たちは明確に分かりやすく分類するために、記号や数字や文字を使う。そしてそうする事により、記号や文字の下に隠された本当の個人の感覚が見えなくなった。全てが一様に平べったく、コンクリートのように塗り固められてしまったのではないだろうか。例えば、わたしがある痛みを5と感じ、別の人はそれを8と感じた、しかしその痛みはAとして表現される事によってAはAの痛みでしかなくなった。という、私の暇が作り出した妄想の果ての疑問である。あくまで疑問である。
 感覚の認識は一人一人ちがう。トマトは赤だが、その一つ一つは違う赤である様に、人の数だけ違いはある。例えば、トマトを青で食べる国があれば、その国の人はトマトの絵を青で描くだろう。だから私はむやみにその感覚を分かった気にならないでいたい。分からないという事によって何かを傷つけたり、押し潰したり、見えなかったりする事は日常、多いからだ。
 それでも、やっぱり誰かに自分を分かって欲しいな、と思う。寂しかったり、痛かった時そう思う。5の痛みでも、2くらい分かって欲しいと思う。これってエゴになるのかな?

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