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透明人間の悲しみ 

 自己愛、ナルシシズム。これが表現の源だと感じている。自分を分かって欲しい、知られたい、理解されたい、そう願うから人は表現をする。表現方法は違えど、人はそれに人生の大半を費やす。
 人間は誰かに認識されないと不安になる生き物だ。寂しがりやなのだ。誰かに見られる事によって自分を感じている。私は小さい頃、透明人間になりたいと切に願ったが、今思えば非常に恐ろしい事だ。誰にも、私という存在がみえない。誰も、私に話しかけないし、目を合わさない、他人からすれば私の事が見えないのだから、私は居ないも同然である。自身によってのみ、自己を確認する作業など気が遠くなりそうだ。きっと気が狂ってしまう。透明人間になって楽しいのはせいぜい2日くらいだろう。
 誰かが、私の名前を呼ぶから、私には名前があるのだし、誰かが私の体を触るから、私は自分の体を感じるのだろう。もちろん世の中には優しい視線ばかりではない、むしろ優しい視線の方が少ないくらいだ。それなのに、人は存在や、価値観や、感情を表現しようとする。知って欲しいからだ。自分が今どう思っているのかを、知ってもらい投げ返して欲しいのだ。一人でバトミントンをしても羽は返ってこない。もう一人の誰かが投げ返す時、初めてバトミントンというスポーツが成立する。自分も羽を追う。それによって自分の運動能力を知る事もできる。
よく、書く事は私にとって排泄と同じようなものです。という人がいるが、私にとっての表現は決して排泄ではない。むしろ、食事だ。それぐらいに絶対的なものだ。食べれば食べる程太る。寂しい人間が増えれば、その寂しさが表現としての自分を太らす。そして肥満。本当に自分に必要な表現を見失っている気がする。他者への必要以上な依存という名の脂肪で、本当の自分の骨格が見えなくなっている。その脂肪は他者への攻撃要因にもなる。
 私がなぜ表現するのかと言えば、もちろん誰かに認識して欲しいという願いからくる、自己防衛にも似た生命維持機能だ。社会の馬鹿野郎!自分の馬鹿野郎!そうやって叫びながら、自分を確認する。それでも、私は自分の骨格を知る事が、目的の表現をしていきたいと思っている。打ち返された球は私の体にぶつかり、その振動が音波の様に自分の形を知らせる。誰かのために、何かのために表現するのではない。この私のためだけにだ。もしかすると、自己愛による表現は一円にもならないかもしれない。しかし、何かのための表現とは、もうすでにそれは表現ではなくなっている。
こんな、悪辣な文章を書きながら・・・。

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