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                             罪をもって許しを乞う

人間は、誰だって生まれた時から罪の意識を背負っているのだろうか?例えそれが、具体的なモノで無いにしろ、漠然と宙に浮いているようなあやふやな意識であっても。
人間が生きる事に生産性などあまり無い様に感じる。むしろその逆の方が目立つ。生きながらにして様々な物資や資源を消費する。消費しなければ生きていけない。そういう動物だ。
特に、発展国と言われる国では・・・。消費は罪になりうるか?そんな事は全く分からないが、人間すらも消費にあてる、という考え方で社会が成り立っている。
人は自ら疎外されたいとは本来思わない。生きて行く過程で何者からも疎外されれば、それは死を意味する。世の中が多数決制であれば、疎外された事じたいが罪になる。その罰は孤独だ。
まず、母親に受け入れられ、母乳を与えてもらう。食事をする。そこから始まるのだから、自殺願望のある生後1ヶ月の乳児などいないだろう。
生きたい、という本能から人生はスタートするのだ。そして、生きるというのは、その後、許されたいに変化する。その許しは、普段私たちが使う、安易な許しではない。生きる事への基本的な欲求だと、思う。
罪とは、なんだろう。罪とは、世間的に人が顔をしかめるような行為である。曖昧だ・・・。だからこそ、文化や宗教によって罪の種類は変わってくる。
では、その罪を何で打ち消すか?または、弱めるか?それが、愛という「言葉」であり、感情だ。愛という名前によって罪をオブラートに包むのだ。
だから「愛」という言葉を使いたいのかもしれない。セックスだって罪だとすれば、愛を取り入れる事により、罪どころか、非常に崇高な行為にすら感じる。
こんな事を考えていると、おかしくなりそうだ。自分を許されたいが為に、人を許すのだろうか?それは、違うよ!と言いたい。奇麗事が好きな私は、愛とはそんなものじゃないんだ!と叫びたい。
幻想だとしても、それに溺れている方がましな場合もある。
ともすれば、何事をも美化しようとする幻想こそが、大切なのだ。幻想すらも、抱けなくなってしまうことが、罪なのかもしれない。

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